ニッコウキスゲ(7)田苗代湿原〜駒ヶ岳
山道に入ってしばらく歩くと、目の前に田苗代(たなしろ)湿原が開けてきた。そこは、どニッコウキスゲが満開に咲き誇る、それはそれは見事な眺めであった。のような絶景の湿原が、山奥の、それまた山奥に拡がっている風景は、神秘的ですらある。その昔、はじめてここに到達したいにしえの人は、どのような感慨をもってこの風景を眺めたであろうか。
人がひとり通れるほどの木橋が湿原を縦断するように通っていて、歩くほどに微妙な景色の変化を楽しむことが出来る。足下をみる。ニッコウキスゲの間に、ささやかな水たまりが垣間見た。そこでは、名も知れぬ小さな昆虫が水面すれすれを飛び回っており、体長1センチほどの小さなオタマジャクシが数え切れないほどひしめきあっていた。遅い春を迎えた湿原は、夏への衣替えを急いでいるかのようでもあった。
さて、湿原を通り過ぎると、ほどなく登山道に入った。駒ヶ岳への登頂には、北回りと南回りがある。南から登ったほうが傾斜が緩やであるが長い距離を歩かねばならない。今回は北からのルートを通ったため、なかなかヘビーな急坂の連続であった。とはいえ、坂道自体はそれほどのきついものではなく、むしろ雨水のしたたる足場の悪さの方が気になった。昨夜降り続いた台風の雨が少しづつしみ出してきているのであろう、したたる水の流れは、登山道の足場を極めて悪いものにしていた。場所によっては、ほとんど渓流のようであった。先行して登る地元のお兄さんでさえも、たびたび滑って転倒し、その度にズボンが泥だらけになっていった。
![]() バスターミナルの壁画 |
お兄さん方はさすがにつかれたのか、ところどころで休憩した。山を覆う樹木は高く険しく、なかなか外の景色を拝むことは出来ない。わずかに樹と樹の隙間から向こうの景色を垣間見るだけである。辺りに人工の建造物は一切なく、山ならではの静寂がどこまで拡がっていた。しばらく休むと、またドロドロの山道を一歩一歩登っていく。また休む。これを繰り返して少しづつ標高を稼いでいった。
山頂に近づいてくると、突然景色が開けてきた。その景色の変化は、あたかもトンネルを抜けたような感じであった。頭上を高く覆っていた樹木は、いつの間にか人の背丈ほどの灌木に代わり、高山植物の花が方々で咲き乱れていた。駒ヶ岳は標高1100メートルほどだから、そんなに高いというわけではない。しかし、この付近の植生は、本州中部の山ならば2000メートル以上の標高に相当するようである。そして、しかし、ここから見下ろせる景色はどこまでも雄大で、美しかった。この景色を見ていると、つい先までぬかるみの山道と格闘していたことがウソのようである。
![]() 山頂付近の急斜面 |
![]() 山頂から北方を望む |
(8)駒ヶ岳登頂
山頂を示す標識にたどりついた。ここが駒ヶ岳の山頂である。登山というほど大げさなものではないが、この爽快感は格別である。一緒に登ってきたお兄さん方は、やれやれという感じで腰を下ろし、休んでいる。地図を見ながら周囲を見渡した。山頂から北側は、さきほど通過してきた田苗代湿原がある。東側はブナの原生林および太良峡である。南側には素波里湖というダム湖が見える。そして、西側一帯が、世界遺産条約に指定された白神山地の深淵部、自然環境保全地域である。その中に、小岳という標高1042メートルの山が見えた。ここには本州では最低標高のハイマツ帯があるという。
![]() バスターミナルの壁画 |
(9)下山〜東京へ
という間に遊歩道を踏み外し、気がついたら斜角30度ほどの崖を5メートルくらい下まで転落していた。前日の台風で足場がゆるみ、滑りやすくなっていたのに、この山道を急ごうとしたのが間違いであった。私は、高校時代に山岳部にいたが、こんなにみっともなく足場を踏み外すことはなかった。しかし、幸運なことに、堆積した腐葉土がクッションとなって、両腕にかすり傷を負っただけで済んだ。この時、デジタルカメラ(Fuji DS-7)とスチルカメラ(Nikon FG20)を携行しており、スチルカメラの方は約10メートルも飛ばされたが、これまた奇跡的に両方とも全く壊れなかった。もちろん私もカメラも腐葉土まみれになったが、この天然のクッションには本当に助けられた。
さて、なんとかよろよろと崖を這い上がり、目指す不動渓谷にたどりついた。手頃な大岩があったので、そこでカメラを乾かし、しばしの休息をとった。こういういい場所で休むなという方が無茶である。
この渓谷も渓流釣りにもってこいの場所であるはずだが、人影はなかった。台風で思いっきり増水していて流れも速かったから、とても釣りを楽しむ状況ではないのかもしれない。先ほど転んだばかりだったので、水に近づくことはせず、岩づたいの移動も決して無理しなかった。さっき転んだことは、結果的に良かったかもしれない。もし、ここで無茶をして足を滑らせていたら、増水した流れに飲み込まれて助からなかっただろう。
![]() 能代駅 |
![]() 能代港 |
(6)岳代ブナ原生林
太良峡を後にし、さらに奥地へと向かった。ほどなく林道が二本に分かれる地点に着いた。右側に行くと釣瓶落という峠に達し、青森県へ行くことが出来る。ここでは、もちろん左側へハンドルを切る。
山道が一層険しくなってきた。自動車教習所のコース以来ではないかと思われるほどの急カーブが連続する。しかし、ここでは砂利道の上に傾斜まであって、さらに水たまりまである難路である。油断したら、車ごと谷底に落っこちてしまうかもしれない。
岳代のブナ原生林に到着した。ここの原生林は、自然観察のために特に立ち入ることが出来る。もっとも、この入り口を示すものはしょぼい標注ひとつだけであった。これを私が走行中に発見することは、まず不可能であるほどのしょぼさであった。なぜ気付いたかというと、林道脇に何台かの車が停まっていたからで、この列に従って車を停めてみると、そこに原生林の入り口あったという訳である。
原生林は素晴らしかった。私の本籍地があるところは地名からして山奥であり、犬の散歩などでよく山の中に入ったものだが、ここの原生林はそういう今まで見てきた山の風景とは全く異なっていた。私がよく入っていた山は、人の手の加わった、いわば人工的な自然環境であったことを、つくづく思い知らされた。原則的に立ち入りの出来ない自然遺産保護区域のそれは、さらに文字通りの原生林が広がっていることだろう。
この原生林には一応巡回ルートがあるが、簡単に道を見失ってしまった。歩けど歩けど、ルートに戻れない。大げさだが、一瞬、富士山麓の生きて帰れない樹海に迷い込んだかのような錯覚さえ覚えた。何せ、方向感覚が全くなくなるし、見上げても原生林の枝が空を薄暗く覆っていて太陽の方角を知ることも出来ない。
![]() 能代駅 |
![]() 能代港 |
![]() バスターミナルの壁画 |
しばらくさまよっていると、遠くに人影が見えた。地元の若いお兄さん方であった。おかげで無事にルートに戻れ、車を停めているところまで生還することが出来た。このお兄さん方には、あとで駒ヶ岳でも大変世話になる。
原生林を出発し、さらに奥地へと向かう。やがて車で行くことの出来る最深部まで到達した。ここからは、徒歩での行軍になる。先ほどの原生林で会ったお兄さん方もやってきた。聞くと、これから駒ヶ岳の頂上まで行くというので、一緒に上ることになった。やはり一人での登山はつまらないし、道に迷ってしまうかもしれないから、大変心強かった。
さあ、いざ駒ヶ岳へ!