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1997年6月 「ぼくは駄菓子屋さん」
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1997年6月6日 日本経済新聞夕刊


「ぼくは駄菓子屋さん」5


小学校に平らな運動場なんかいらない
   勉強より木登りや火の起こし方教えてほしい
      そろそろ隠居の時期 お遍路にでも出ようか

−宮崎アニメが少年少女の間で圧倒的な支持を得ているのは、子供の自線で物語を構成し、絵を作っているからだ。

 好奇心をなくして、人とかかわるのを恐れる。傷つきやすく誇り高い子供たちばかり生み出してしまったのは、この民族の存亡にかかわる大間題です。大人たちがどこかでずれてしまった。地域社会を壊し、子供たちが縦社会で遊ぶという習慣を奪った。

 今、子育て中の親たちは、自分たちが子供時代にやるべきことをやっていないから自信が持てない。教育制度をいじる程度で子供たちを変えられると思っているなら甘い。平らな校庭を作るのをやめるくらいの発想の切り替えをしなければダメだと思います。ゲームやテレビアニメで活字離れが進むというけれど、いったい子供たちが活字でものを考えた時代が何年あったか。この百年の歴史をみても子供たちが熱心に本を読んだ時代は少ない。明治時代なんか、まっとうな人問は本なんか読むなといわれた。親の目を盗んで「立川文庫」をこっそり読んでいた。

 自分で火を起こし、ちゃんと始末ができる、はさみが使える、ひもで何通りかの縛り方ができる、木登りができる、落ちたら痛いことを知っている。そういうことを教える小学校にしてほしい。苦しめるのが勉強だと思っている。教えれば教えるほど子供は覚えるなんてとんでもない間違いで、それは、野菜作りをやっでみればすぐ分かる。いくら水や肥やしをやっても育ちはしないですよ。

 コンビニへ行って、買い物して飯を食うことくらいはできるけれども、自分が出合った経験を総合していく能力というのは、子供が遊びの中で身につけていくもの。自分もそういう考え方に毒された時期がありましたが、結局やれやれと言ってもそいつはそいつになるしかないんですよね。

 校長の訓示を聞くための運動場なんて要らない。半分は土を盛って山を作ってつり橋かけて、そこで鬼ごっこやればいい。それはスポーツとは別で、ルール通りやれとか球選んで振れとか指導するものではありません。球を選べというのは大人の世界。どんな球でも打ってみる。そうじゃなければ遊びは成立しない。

−自宅近所の雑木林を保存するために、三億円を寄付して公有地化し、一住民として、下草刈り作業に参加している。

 文化人になりたくないものですから、自分の生活でできる範囲でやっています。森の中を掃除したり、川さらいしたりするのは面白いですよ。長靴はいてざわざわ入って、普段見慣れている上からでなく、下から眺めると、いろいろなものが見えますからね。

 そろそろ隠居しようかなと思っています。僕は本来、演出でなく絵を描いて動かすアニメーターの人間です。演出やっていても四分の三は描いている。ところが、目と腕に限界があって、ごまかしごまかしやってきたけど、もう限界に来たなと思います。朝起きて、もうろうとしてスタジオに来る。机に座って描いて、後で何描いていたか覚えていない、そんなことを何度も経験して、本当にこれはやばいと思いました。これ以上のさばるのは老害です。

 やりたいことはいっぱいあります、うんざりするほど散歩したい。四国にお通路に行きたいとも思っている。脚力には自信ないけど、公約してますから、あとは見えと意地でやるしかないですね。(聞き手・名和 修)
(当該記事より)






1997年6月5日 日本経済新聞夕刊


「ぼくは駄菓子屋さん」4


自然に対する謙虚さをアニメに投影
   電柱や標識のある風景描いたら反響あった
      もの作りには凶暴な意志 遊び半分ではできない


−日本のアニメ文化を引っ張ってきた宮崎動画は、映像の美しさ、人物の表惰やしぐさのきめ紬かさで、他の追随を許さない。

 アニメの多くはサブカルチャーを背負っていて、米国の場合は明らかにミュージカルの影響を受けている。リアルな人間のしぐさは表現しきれないから、演技のスタイルをミュージカルや、軽演劇の舞台に求め、そこに安住したため遅れてしまった。ロシアはいまは長編を作っていませんが、しぐさはクラシックバレエを参考にしている。

 僕らには何があるかというと実は何もない。ただ、スタッフの中の共通の言語として漫画があり、もう一つは劇映画なんです。漫画を兄貴にして始まっていながら勉強は映画を見てしている。逆に、日本の映画が後れをとったのは、日本人の存在感の問題もあると思うけど、映画を作っている人たちがあまりにも漫画の影響を受けているんですね。

 ほかの国のアニメを見ても、自然物を単なる背景、木や水や空なんかを、ただ効果をあげるために使う。人間がいる世界そのものを自然が包んでいるんだという考え方は僕らの方がはるかに深いと恩う。自然を擬人化したものは随分あるけれど、自然に対しで謙虚になろうとする考え方ははるかに深い。僕らのスタジオがやってきたのは、そういうことではないか。

 夏草が茂っているのを描くときに本当に近所で茂っている夏草を描いたら空間はつぶれてしまいます。「となりのトトロ」のような関東地方の風景でも随分、空気を澄まして、乾燥させて描かないと気持ち良くならないです。もともとはうっとうしい風景なんですから。あとはどう空間を切り取るかという目線の間題だと思う。

 僕はツーバイフォーの建売住宅に象徴される日本の町並みは大嫌いなんです。しかし、「耳をすませば」で、電柱や道路標識を、できるだけ取り入れて風景を描いてみた。いろいろ反響がありましたけれど、中高生から大きな反応があっで面自かった。自分たちの住む世界一が物語の舞台になると気が付いたんですね。

 画家が何度も何度もパリの町を描くからパリの町はきれいになったという見方があります。画家や映画人がこの方向から見れば、この町はきれいだ、と表現しないと、人々の感覚は変わらない。地元の川をきれいにする運動をやってきたんですが、川は人に見られれば見られるほどきれいになる。確かにそういう部分ってありますね。

−映像表現に職人的なこだわりと厳しさを持つだけに、アニメの将来には危機感を抱く。

「ジャパニメーション」という言葉があるほどなのに、日本の現場はちっとも潤っていない。好きなときだけやってあとは家業を継ぐ。そんなことではやっていけません。マルチメディア時代などと、もてはやされるのはこっけいです。バブルに至るまでの内需拡大の過程の中で、作る苦しみを味わうよりは、遊んだり消費を楽しむ方がいいという生き方を、全員で奨励したんですね。ものを作るというのは凶暴な意志ですから、洗練された都会人にはできなくて、乱暴な言い方すると野蛮人のやること。それはマイホームのよきパパでいてできるわけがない。女房には迷惑かけっぱなしなんで、フェミニズム運動から言わせたら最低の男でしようね。(聞き手・名和 修)
(当該記事より)






1997年6月4日 日本経済新聞夕刊


「ぼくは駄菓子屋さん」3


一手塚漫画は奥深いがヒューマニズムが嫌い
   学生時代は絵を描くことに熱中していた
      自分の顔鏡で見て哲学志望やめた

−高校三年のときに東映のアニメ「白蛇伝」を見て動画に興味を持ち、大学時代はもっぱら絵を描いていた。手塚漫画をどう乗り越えるかを自らに課した。

 ひねくれた時期に「白蛇伝」を見て、ひねくれたくない自分がいるんだということを認めざるを得なかった。ここは正直にいくしかないと。ただのメロドラマですが、そこには真実があった。小難しいこといってもやっぱり出発点はここなんだと。六○年安保が大学二年。しかし、自分が抱えていた煩悶(はんもん)にじたばたしていた時期でしたから、右翼反動分子だったかもしれない。むしろ騒ぎが終わって、そこら辺が挫折だらけのころ、社会的責任に思い至りました。

 大学時代は結構まじめに絵を描いていました。ただ、勉強で無理してやるのはいやでしたから近所の画塾に通っでいました。中学の美術の先生が小さな幼稚園でほとんど道楽で教室をやっていた。恩師ですが、絵よりも酒を飲むことを教わったという感じで、自分でああでもないこうでもないと描いていた。一日暗くなるまで描いて、家に帰るときに少しは上手になっているというメーターが付いていればいいななんて思いましたね。

 手塚さんは間口が広くて奥深い人です。しかも、相当のペシミストだと思うけれど、ヒューマニズムで商売しているのが見えるんですよね。小学生の時に僕がひかれたのは悲劇性の部分でした。メジャ−にならざるをえなかった手塚さんとしてはヒューマニズムを売り物にするようになった。そういうところがいやでしたが、受けばかりをねらう漫画家の中ではよく勉強し、作品には独自の世界観がありましたからそれは強烈なインパクトでした。

 僕自身はぺシミストのつもりだったんです。学生時代、変に悶々(もんもん)としている時期に、これだけ悩んでいるんだから哲学者になれるかな、とふと思ったりもしました。だけど、学校の部室が並んでいるところにでっかい鏡があって、いや応なく自分の顔を見ちゃう訳ですよ。すると、陽気な顔してんですよね。目が全然だめなんです。キェルケゴールのような顔してないんです。こりゃ、だめだと思いましてね。その時に結論出しました。おっちよこちょいで生きる、大ざっぱな気分でやるしかないと。

−学習院大学卒業後、東映動画にはいる。その後、アニメーターとして、いくつかのスタジオを渡り歩く。八四年の「風の谷のナウシカ」が大ヒット。以来、発表作は映画賞を総なめにしてきた。

 ぼくは、アニメーションは駄菓子商売だってよく言うんです。別に卑下しているわけではなく、人工甘味料とか防腐剤を入れるんじゃなくて、ちゃんと食ったらうまいぞというものを作ろう、ということ。ただ、麦こがしをセロハンに包んで商売しても売れないし間尺に合わない。どこかで今様のスタイルの中で競争しながら作る。

 これを食べれば丈夫な子が育ちますというのはウソです。あくまで駄菓子であっで、主食じゃ、三度三度の食事をきちんととっている人間が遊びも込めて食べるもので、それだけで全部まかなえると思ったらとんでもない。やっぱりちゃんとしたモノを読み、見なきゃいけないんで、その中にうまくはまったときに、自分たちの役割があるんだろうと思っています。(聞き手・名和 修)
(当該記事より)






1997年6月3日 日本経済新聞夕刊


「ぼくは駄菓子屋さん」2


一自分の裕福さがうしろめたかった
   飛行機好きは子供のころから
      8歳を過ぎ、日本の風土を再発見


−1941年東京生まれ。父は戦時中、飛行機部品の工場の経営者。裕福な家庭で育った。

 学校に弁当を持ってこれないとか、遠足に行けないとかいう仲間がいた貧しい時代でしたから、どこか自分の中で申し訳ないという負い目があった。ひどく不安の強い子供だったんでしょう。人身売買の話なんか開くと、その辺でもやってるんじゃないかと思うわけです。

 父は中島飛行機の傘下で栃木県・鹿沼で翼の先っぽなんかを組み立てていました。この前、飛行機乗りの本を読んでいたら、おなじ零戦でも、三菱製に比べてみんな乗りたがらなかったそうです。実は、その裏付けになることをおやじから聞いた。ポケットマネーをはずむと、検査が簡単に通るって。そんな飛行機が特攻機になったわけです。自分の一族はのろわれていると思いましたね。なんということやって金もうけしてたんだと。

 僕の飛行機好きは父の仕事とは無関係です。小さいときに落書きで飛行機の絵をよく描いていた。ひ弱な子でしたからそういう世界が好きだった。小学生のころに、飛行機の雑誌に出合い、やたらに興奮したのを覚えています。それまで見なかった旧日本軍機がたくさんでていた。ただ、当時は大人たちが反省していたから、人肉を食わざるをえなかったとか、レーダー戦で負けた技術者の話とか、七三一部隊の話とか−日本軍がひどいことをやったということも含めて、軍事ものに夢中になりました。

 僕は慢画を描くために大学に入ったような人間ですが、戦争がいかに国民経済を破壊するかという財政学の講義を聞いて、目からうろこが落ちた思いがしで軍事関係の本を全部捨てちやったこともありました。モノ作りが好きでゴム動力の飛行機や潜水艦をよく作りました。僕の場合は設計図通りにやらないから、飛ばないんですね。プロペラを二つ合わせてみたり、実際に飛ばすよりも空想していることのほうが多かった。

−宮崎動画には幻想的な飛行物体のほかに、「となりのトトロ」の田園風景をはじめ、豊かな自然が通奏低音のように描き込まれている。

 子供時代は農村は嫌いでした。田舎育ちの母親から、日本の農村がいかに貧しく遅れているかということを延々と聞かされていましたから。親せきのかやぶき農家に遊びに行っても、母屋の暗がりなんかは、陰々滅々、恐ろしい感じしかしなかった。だから、レンゲ畑や菜の花畑が広がっでいる風景はきれいだとは思わなかった。日本をもう一度、自分で発見しなければいけないという気持ちになったのは三十歳を過ぎてから。外国に行ったりいろんな経験をするうちに自分が−日本という国家はずっと嫌いだったし、いまでもあまり好きじやないけれど−
 −風土そのものは好き嫌いと関係なしに自分の中に抜きがたくある。それを率直に認めようという気持ちになった。だから、トトロの風景は記憶で作ったわけではなくて、探し出しで集めたものです。嫌いだった日本という風景をどうとらえ直すか、いじけた少年である自分に日本の自然は素晴らしいものだということを伝える手紙を書くような気持ちで作りました。司馬遼太郎さん流に言えばステーツとしての日本とネイションとしての日本の違いを識別するようになるまでずいぶん時間がかかったわけです。(聞き手・名和 修)
(当該記事より)






1997年6月2日 日本経済新聞夕刊


「ぼくは駄菓子屋さん」1


「もののけ姫」は好き勝手に作った
   時代劇の枠に縛られないファンタジー
      「人間の本質に迫る作品」に挑戦してみた


−この夏、劇場用アニメ「もののけ姫」を公開する。日本の中世末期を舞台にした初の時代劇で、原作、脚本、監督を担当した意欲作だ。

従来の時代劇の枠に縛られたり、寄り掛かったりするのがいやだったから、日本を舞台にしたファンタジーということで好きにやらせてもらいました。室町の応仁の乱のころの辺境の地、森の木を大量に消費して鉄を作るたたら者と自然界の荒ぶる神々とが対峙するという設定です。

この時代は、これまでいわれてきたことよりも、ずっと豊かで変化にあふれていたことがわかってきました。日本人の自然観もこのころに変わった。それまではおそれが随分強かったけど、敬うけど、それは神棚に上げで、勝手にやろう、というふうに。身分制度とか男性上位といったものにしばられていたのが日本の昔なんだ、という時代劇の先入観を壊してみたかったし、登場するのは歴史の表舞台に出でこない人々ばかりです。

ここでは「自然=善」というわけでもない。善とか悪とかで映画を作ることはこの際やめました。学生時代にはよろいの研究していたくらいですから、漂白しながら山の中で製鉄していた人たちのことに興味がありました。

−制作費は宮崎作品としては過去最高の二十億円、上映時間も二時問を超す大作。米ディズニー社と提携し、世界に配給する。

おととしの七月から皆で描き始め、終わったのがついこの間。セル画の枚数は八万放くらいでコレヨレになるげれど、今度は濃厚な密度の絵を十三万枚ですから、約一・五倍。自分でもこれほどになるとは思っていませんでした。ディズニー配給というのは一斉に世界中で公開されるような誤解がありますが、上映するかどうかは、それぞれの地域の責任者が、自分たちのリスクで完成前に決める。一作品につきで五カ所五分間の場面を見る。要するに五力所面白ければOKというのが彼らの基準です。ですから、全米で一館だけということだってあります。

僕らのスタジオは十年来やってきたが、自分の視点を持ちやすい時代でした。待に日本人全体が一種凶暴な自信を持った時期は非常にやりやすかった。その価値観に対して異議申し立てをすることも含めて、片方が自信を持ってくれていると楽なんですが、こう全員が右往左往しているときに、「そらみろ」と言ってもしようがないわけです。

90年代は、もっと人問の本質に迫る作品をつくらねばならない、と内部で話し合ってきました。でも、とても難しい。実は、僕自身は一種のモラトリアムで「紅の豚」なんかを作ったりしました。しかし、もう逃げられない。エンターテインメントの枠を超えても、一度は正面から入るという作業を、この時期にやっておかないと、今までの仕事もウソになってしまう、という思いがあって背伸びしてやりました。

外国人がどう見るかよりも日本人が見てちゃんと作品になっているかが心配です。逐電して雲隠れしたいというのが今の正直な心境です。(聞き手・名和 修)
(当該記事より)







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