●「もののけ姫」ニュースクリップ:19
news clip of "The Princess Mononoke"

1998年2月 スポニチ連載 鈴木プロデューサー
戻る rerurn



1998年2月9日 スポーツニッポン


スタジオジブリ 鈴木敏夫プロデューサー 5



世界へ"夢"発信・・・これからが本番

 スタジオジブリが「もののけ姫」に続いて発表する新作は高畑勲監督(62)の作品となる。プロデュースする鈴木敏夫氏(49)は「昨年六月から実質的にスタートを切っています」と話したが、すべてをデジクルで作ると一端を明かした。

 二時間十四分の「もののけ姫」に要したセル画は十四万四千枚。もちろん、一部にコンピューター・グラフィックス(CG)の技術も採り入れたが「今度の作品は、全編デジタル。色もCGで塗り、表現にも挑む」と、鈴木氏は目を輝かせる。ディズニーとの提携も、商売を考えただけではない。「技術を教えてもらうことも大事ですし、海外ものの原作権を入手するのに、力を貸してくれるのではないかと思って」と、計算ずくだ。

 主要スタッフを昨夏、アメリカに派遣し、勉強させてもいる。「提携前は、何事につけ隠していたものが、今は協力的です」と笑顔で語るが、ディズニーにも一目置かせたジブリの作品があってのものだろう。

 一月四日にアメリカでアカデミー賞の審査員三百人が「もののけ姫」を見て、驚きの声をあげたという。世界四十四カ国の作品から五本がノミネートされるアカデミー賞の外国語映画賞に当確ランプがともるかどうかは予断を許さないが、ディズニーは間違いなく、欧米での商売に本腰を入れる。

 鈴木氏は「サハラ砂漠に出掛け、ここで、本当に"もののけ姫"に区切りをつけたい」と話したが、最後は製作総指揮の徳間康快・徳間書店社長(76)への感謝の言葉で締めくくる。

 「時代劇?」「製作費が20億円?」「ライバルが"ロスト・ワールド"だって・・・?」「もののけ姫」の製作に動いた時の関係各所の反応はにぶく「今度ばかりはジブリもダメだろうね」「宮崎駿もこれが"最後"だ」といった陰口を随分叩かれたそうだ。しかし、そんな時だ。「その根拠のない自信にはいつも驚かされますが、徳間社長は"日本映画の配収記録は?−五十九億、そうか、配収目標は六十億円だ!"と、製作にゴーサインを出しでくれました」

 結果は、今月二日時点で動員千三百六万人、興収で百八十億六百八十八万円、配収で百八億円のスーパーヒット。徳間社長は「まだまだ興行を続けて、二十一世紀にも抜けない数字にしたい」と胸を張るが、こうした言葉に、勇気づけられるのは鈴木氏も一緒。

 東小金井のスタジオジブリには、すでにコンピューターがぎっしり。パリの時間とロサンゼルスの時間が一目で分かる時計もついている。日本の、そしでジブリが発信する作品が世界を席けんするのは、これからが本番。鈴木氏の忙しい日々はまだまだ続きそうだ。(佐藤雅昭)(当該記事より)







1998年2月7日 スポーツニッポン


スタジオジブリ 鈴木敏夫プロデューサー 4



「魔女・・・」成功が転機で大改革

 八五年に徳間書店傘下に誕生したスタジオジブリの取締役として、鈴木敏夫氏(49)にはアニメーション制作のほかにもしなければいけない実務がたくさんあった。

 「それまで、アニメの制作は作品ごとに人を集め、出来たら解散。報酬は出来高払い。そんなものでした」アニメーターたちは月十万円ちょっとで、過重労働に耐えている。鈴木氏は宮崎監督の指揮下「これではいかん。育つ人間も育たなくなる」と改革に乗り出す。八九年の「魔女の宅急便」がきっかけだった。

 「アニメーションの制作とは、すなわち人件費がほとんどなんですが、これを倍にしなければと思ったわけです。ジブリ第二期といっていい転機でしたね」と振り返るが、その改革とは、アニメータ−たちの社員化と給料の倍増という内容。「魔女の宅急便」は配収二十億円を超し、その年のナンバーワンヒット作品になったが「作品作りの密度も濃くなり、出来高は下がる。だから、次の"おもひでぽろぽろ"で、その改革を取り入れたのです。予算も二倍。「宣伝も真剣に考えなければいけないと思いました」と鈴木氏は話した。

 そして、この「おもひでぽろぽろ」を作っている間に、「紅の豚」にも着手した。「オ−バーラップで作る初体験でしたが、こんなことがありました。オーバーラップとはいえ、いったん、制作作業が始まってしまえば、ほとんど全員が"ぽろぽろ"にかかりっきりになる。ある日、置き手紙があったんです。宮さん(宮崎監督)からのものでした。それには"おれ一人で(紅の豚を)全部やれというのか"と、ね」鈴木氏は宣伝にも本腰を入れる。これまでは配給会社の宣伝部に任せっきりということが多かった。もちろん、信用しないわけではないが、この宣伝というものに関しても、責任を持たなければいけないと考える。

 「いいものを作っても、ちゃんと見てもらわなければいけない。アニメージュの編集部にいた時も、全国の書店を回ってどんな人が買ってくれるのかをリサーチしたものです。映画も同じことをしなければダメだと思いましたね。映画館のおじさんたちに見てもらわなければと」鈴木氏はこうも言う。プロデューサーというのは、企画、製作、衣のつかない制作、宣伝、配給、そして興行と、このすべてにかかわらなければいけないと思いました」

 こんなスタイルで「紅の豚」(九二年)「平成狸合戦ぽんぽこ」(九四年)とジブリは作品を世に送り、その年の興行成績ナンバー1を記録していく。高畑、宮崎の名前は、押しも押されもしない大きなものになり、そんなジブリから「もののけ姫」というお化けヒットも誕生した。しかし、鈴木は立ち止まってはいない。「もののけ姫」製作の過程でアメリカのディズニー社と提携を結ぶ。(佐藤雅昭)(当該記事より)







1998年2月5日 スポーツニッポン


スタジオジブリ 鈴木敏夫プロデューサー 3



"ナウシカ資金"でヒット作連発

 「もののけ姫」を最後に、宮崎駿監督(57)は引退をほのめかし、周囲を驚かせた。だが「もうやらない」と言い張るのは、今回が初めてのことではない。鈴木敏夫氏(49)は振り返る。「"風の谷のナウシカ"(八四年)が終わった時、もう引退を口にしていました。絵も自ら描く宮さん(宮崎監督)にしでみれば"監督は二度とやらない。こんな苦労はもうしたくない"がホンネなんです。

 ところが、世の中って面白い。「ナウシカ」の成功で、宮崎監督に数千万円単位のお金が入る。それまで、ぜいたくな生活とは無縁だった監督に「どうして使ったらいいのか?」という、余計な悩みが生じる。映画作りはやめたい。貯金しで家を建てて…は性分に合わない。相談に乗ったのが鈴木氏だった。意味のあることに使いたい。「ナウシカ」でプロデューサーを務めた高畑勲氏(62)を脚本・監督に迎えたドキュメンタリー映画の製作が、こうして始まる。三年かかって出来たのが、毎日映画コンクールで文化記録映画賞に輝いた「柳川掘割物語」(八七年)だった。その前年の八六年には、実質的なスタジオジブリのスタ−トとなる「天空の城ラピュタ」も発表していた。

 鈴木氏の仕掛けは続いた。「となりのトトロ」という宮崎監督が十年も温めていた企画があった。昭和三十年代の日本を舞台にしたものだ。これと、鈴木氏が十九歳の時に読んで感動した野坂昭如氏原作の「火垂るの墓」、こちらは高畑監督が手掛けることになるが、この二本立での製作に鈴木氏は動いた。

 「トトロは手っとり早く言えば、オバケと子供の話。オバケに墓とは一体何事だ、とこれも企画書だけで拒否権を発動されました」しかし、くじけない鈴木氏は、当時、新しいものに挑戦しようという動きを見せていた新潮社に相談する。「火垂るの基」が同社から出ていたこともあったが、その返事は前向き。文芸出版の先達、新潮社が動いたとあり、徳間書店内に、もう異を唱えるものはいなかった。「となりのトトロ」(八八年)は毎日映画コンクールで日本映画大賞を受賞。「火垂るの墓」もモスクワ映画祭で賞を取る。スタジオジブリの仕事が忙しくなった。

 鈴木氏は当時を思い「二足のわらじは楽しかった」と言う。「アニメージュの編集部員でありながら、正式な業務命令もなく、兼任という形でジブリの仕事をしていた」からだ。「朝から夕方まで吉祥寺にあったジブリ(現在小金井市)にいて、夜、新橋に戻るという生活でしたね。昼間、ジブリにアニメージュの編集マンが来る。セル画を貸し出してほしいというから、そんなことはできないと断る。夜、会社に戻り、昼間訪ねてきだ編集マンをつかまえ、どうしでセル画を取ってこないとしかりつける。まさしく二重人格になっていましたね」

 そんな生活が九一年の「おもひでぽろぽろ」まで続いたという。(佐藤雅昭)(当該記事より)







1998年2月4日 スポーツニッポン


スタジオジブリ 鈴木敏夫プロデューサー 2



トントン拍子で「ナウシカ」映画化

 「アニメージュ」編実部に配属された鈴木敏夫氏(49)は、創刊号を高畑勲監督(62)のコメントで飾ろうと、電話をかけた。「一時間しゃべりました。でも、コメントをくれたわけではないんです。なぜ、コメントできないかを高畑さんは一時間にわたってしゃべるんです」

 そのうち、電話の向こうの高畑監督は「私はコメントしないが"ホルスの大冒険"で有カスタッフだった宮崎という男がいる。代わりましょうか」これが、宮崎駿監督(57)との出会いであった。電話での会話がまた一時間、延々と続く。

「宮さん(宮崎監督)は逆にしゃべらせろ、と言う。だから16ページよこせと・・・。」結局、創刊号に二人のコメントが載ることはなかったが、高畑、宮崎という二人の名前は鈴木の頭から消え去ることはなかった。

 アニメーションのことを知らぬまま、アニメ雑誌の編集部に籍を置いだ鈴木氏は、この一件以後、二人に興味を持ち、当時池袋文芸坐で再上映された「太陽の王子ホルスの大冒険」を見に行った。 「見事な映画でした。問題意識をしっかり持った青年向けのアニメーションという感じを受け、初めてこの世界に興味を持ち始めたのです」鈴木氏は遠くを見つめるように、こう振り返ったが、その直後、再び宮崎監督との出会いが来る。「ルパン三世/カリオストロの城」だ。「これをアニメージュで取り上げようとしたんですが、この七九年からですね。今日に至るまで、宮さんとは毎日のように会うことになるんです」

 当時、世間ではメディアクロスが盛んに叫ばれていた。映像、音楽、活字などをクロスオ−バ−させる動きだ。既に「風の谷のナウシカ」の素案を持ち、映画化の機会をうかがっていた鈴木氏と宮崎監督にとっては、またとないチャンスの到来。鈴木氏は徳間書店の映像企画委員会に諮る。ところが…。「原作もないのに、何を寝ぼけたことを」と、すぐに否決されてしまう。ここであきらめでしまえば「ナウシカ」も生まれなかった。

 鈴木氏は、ならばと編集部の仲間と相談し、策をろうした。「原作がないからダメというならば、原作を作ってしまえばいいと思ったわけです。アニメージュで早速連載をスタートさせたんです。単行本は通常百六十から百八十ページ。早く単行本にしたかったので、百二十ページで作ってしまった。七万部刷って五万部しか、売れませんでしたけど(笑い)」

 立派に?原作も作った。鈴木氏はさらに徳間書店の宣伝部長を味方につけようと画策する。考えた手口は何とチンチロリンだった。「わざと負けて、その気にさせてしまおうと…」今考えれば、牧歌的な感じがするし「ナウシカ」がこんな形からスタートしたとは面白い。うまい具合にハマッたうえ、その宣伝部長が実は博報堂にいた宮崎監督の弟さんの知人。これには、鈴木氏も驚いたが、博報堂の協力も得られて、映画化の話はとんとん拍子に進んでいく。天をも味方に付ける何かを鈴木氏は持っていた。(佐藤雅昭)(当該記事より)







1998年2月3日 スポーツニッポン


スタジオジブリ 鈴木敏夫プロデューサー 1



喜びと戸惑い「もののけ姫」大ヒット

 配収百億円を突破し、日本映画史上に金字塔を打ち立てた宮崎駿監督(57)のアニメーション映画「もののけ姫」。企画から興行までかかわったのが、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー(49)だ。空前のヒットに、正直戸惑いは隠せないが、鈴木氏は既に"次"に向かい始めている。(佐藤雅昭)

 あのスピルバーグの「E・T・」も、そして「ジュラシック・パーク」も越えられなかった配収百億円の壁。それを、あれよあれよという間に突破てでしまった。その瞬間、鈴木氏は日本一のプロデューサーになった。「まさか」「よもや」の声は外野からだけ聞こえできたのではない。鈴木氏も製作総指揮の徳間康快・徳間書店社長(76)も「目標は六十億円」に置いていた。しかし、宮崎ブランドの信用度は、二人の想像も超え、昨年の夏、まさしく一人勝ちを収める。

 「夏に公開されたものは、普通は秋には興行が終わる。だけど、ありがたいことに今回ばかりはまだまだ続いています。映画というのは、一次的な興行、ビデオ、テレビ、そして海外での商売と、いろいろなもので製作費を回収していくケースが増えています。でも、本当は、プロデューサーの誰もが、映画の興行だけで、回収をはかりたいと思っでいるはずです。今回はそれが実現できてうれしいです。でも、ぜいたくをいえば、興行が早く終わってほしい(笑い)。早く次に掛かりたい。宮さん(宮崎監督)も同じ気持ちです」

 二月から三月にかけて、鈴木氏と宮崎監督は三度海外に出掛ける予定だ。一つは招待を受けたベルリン映画祭。そして、ノミネートが有力視されでいるアカデミー賞外国語映画賞。「その合間に、サハラ砂漢に行こうと思っているんです。実は、ジブリって"サハラ砂漢に吹く熱風"いうイタリア語。二週間ほどここに滞在し、本当に区切りをつけて、次に向かわなきゃと思っているんです」

 鈴木氏は一九四八年八月、愛知県名古屋市に生まれだた。根っからのドラゴンズファン。「スポニチでも、もう少し中日ネタを」とりクエストしてくるツワモノだ。慶大卒業後、徳間書店に入社。週刊誌を三年ほど経験し、七八年に創刊されだアニメーション雑誌「アこメージュ」編集部に配属になる。アニメーションには、何の縁もなかった。未知の世界に足を踏み入れたわけだが、この仕事が高畑勲、そして宮崎駿との運命的な出会いを生む。のち、トリオで映画史上に残る数々の名作を送り出すことになるが、二人との出会いは劇的だった。

「創刊号で、過去の名作を取り上げようということになったんです。誌上アンコールです。その第一回に決まったのが、高畑監督の"太陽の王子ホルスの大冒険"でした」アニメーションの世界では、既に知られた高畑監督。記念すべき創刊号にコメントをもらえないかと、鈴木氏は電話の受話器を握った。(当該記事より)






戻る return