1998年4月26日 しんぶん赤旗 日曜版
宮崎駿さんの青春語ろ〜ぐ 4(最終回)
「もののけ姫」より遠くへ
東映動画に入って1年後ぐらいに、「雪の女王」というロシアのアニメーション映画に出合いました。たまたまそれを見てドカーンとなった。そのときです。アニメーターというのは、すばらしい職業だと思ったんです。その映画の録音テープを仕事しながらかけっぱなしにしてました。延々と聞いていたら映像を全部思い出せるようになった。1回しか見てないし、ロシア語もわからないのに、セリフの意味が音楽的な響きで伝わったんです。
それが自分にとって第2の原点でした。ただ、自分たちがやってることと、その作品の間にギャップがありすぎてね。どうやったらそこにたどりつくのか、見当もつかなかった。次の仕事のときに、とにかく熱烈に仕事をしました。でも、最後のカットを上げて、これでとり返しがつかないと思ったときは情けなくて泣きました。自分の表現したいものと自分の腕とのギャップを、想(おも)いでカバーできると思っていたんだけれど、やっぱりちやんと修行しないとだめだ。そうしないと自分の想いを表現することはできないんだということを、痛いほど思い知らされたんです。
それから変わったような気がします。とにかく、全力投球をすること、どんなつまらない仕事でも何か発見して、少しでも前進すること。そうしないと、本当に大事な仕事に出合った時、力を発揮できないんです。
僕らはリレーをやってるんです。だれかからバトンをもらった。それは、手塚冶虫さん、「白蛇伝」あるいは「雪の女王」からかもしれない。でも、それをそのまま渡すんじゃなくて、自分の体の中を通して次のやつに渡す。通俗文化って、そういうものだと思ってるんです。
アニメーターが演出をやる仕事としては「もののけ姫」が最後です。僕はもう現場では描けない。そういう体力が残っていないんです。そうすると、いや応なく別な形でやらざるをえない。だけど、自分は描けないから、前よりレベルが落ちてもしかたがないというふうにはなりたくない。むしろ、自分が描けなくなったんだからこそ、レベルは高くなってほしいじゃないですか。僕にとっては、次、何をつくるかなんです。それができたら、「もののけ姫」よりもっと遠くまでいけるなと思うんです。(当該記事より)
1998年4月19日 しんぶん赤旗 日曜版
宮崎駿さんの青春語ろ〜ぐ 3
仕事中、机に足のっけて…
親や学校の先生の意向に合わせて自分を変形させていたという思いが、大学に入ってから噴出しました。高校時代、ずっとふたを閉めてたから。大学の4年間、僕は経済学部にいたんですけど、経済については全然勉強しなかった(笑い)。でも、絵の勉強にかんしての時間は有効だったと思います。
動物を描こうと思ったら動物園へいって、デッサンを長々とやっていました。これで少しはうまくなってるのかしら、と考えると全然自信はなかったけれど。漫画も描きました。「手塚治虫さん、そっくり」といわれるんです。それがほんとにつらくてね。なんとかまねしないようにと思ったんですけど、自分が一生懸命描いたものが似ちゃうわけだから…。たんすの中に描きためたものを全部燃やしたりする"儀式"もやってみたんだけど、ああいうのは全部意味がない。また同じものを描きはじめる。(笑い)
結局、漫画にはむかないという結論をだして、アニメーションにちよっと興味をもったから東映動画に入ったんです。アニメーターになっても、歯車になりたくないから5時になったら帰ってくるという生活を自分に強いました。少しは自分のためになる本を読まなきゃいけないと無理やり読んだり、下宿でジタバタとやってました。
生意気だったんです。アニメーションやりながら、漫画家のチャンスをあきらめずに探そうかなあと思ってたものだから、絶対くい殺されたくなかった。仕事中に机の上に足のっけたりして、わざわざ怒られたりね。自然にやってるんじゃなくて、無理してやってるんですよ。
しばらくして、小さな企業内組合だけど、書記長もやりました。そのときはほんとに困った。責任を背負わなきゃいけないでしょ。学校でたての青二才が、「入社させてください」って、ついこの間会いにいったオジサンとケンカしなきゃいけないんですから(笑い)。自分の弱さみたいなものと、毎日ずっと顔をつきあわせているものだから、鍛えられましたね。
その組合で高畑勲さんと出会ったんです。彼は頭いいし、いまよりずっとかっこよかった。ぐうたらなところも取りえに見えたぐらい(笑い)。彼に出会ったことが、アニメーターになった僕の最初の一番大きな出来事でした。(当該記事より)
1998年4月12日 しんぶん赤旗 日曜版
宮崎駿さんの青春語ろ〜ぐ 2
「3回通った同じ映画」
高校時代は、ほんとにしんどかったです。毎朝、角を曲がって学校が見えるたびに、「ああ、燃えてねえ」ってがっかりしてました。(笑い)そのとき、漫画家になろうというのが自分にとっての逃げ道でした。
だけど、漫画の落書きはいっぱいしてあっても、全然描けてないんです。僕は手塚治虫さんの漫画が好きだったけれど、模写したことは一度もない。母親が「人のまねをするのは最低だ」といったからなんです。だから、「鉄腕アトム」も描けない。(笑い)
あのころ映画をよく見ました。「白蛇伝」という日本で最初のアニメーション映画を見にいったときも、別に喜びいさんで期待していったわけじゃなくて、時間つぶしにいっただけなんです。それが、はまったんですね。(笑い)
そのショックの受け方というのは、すばらしいというよりも、「自分はなんてみすぼらしくなったんだ」という思いなんです。映画の中の人物たちは一生懸命生きてるのに、自分は受験勉強でこんなゴソゴソした生き方をしていていいんだろうか、と。何かと親に反抗するようにもなっていましたから、なんでこんなにいがみあうんだろうといういろんな感傷も含めて噴出したんです。
分析してもしかたがないんですけれど、18歳ぐらいになれば、だいたい世の中を斜めに見たいじゃないですか。そういうものなのかなと思っていたら、そうじゃない世界があった。恥ずかしげもなくメロドラマを堂々とやってるのを見て、自分は斜めよりも、真っ正面が好きなんだと認めざるをえなかったんです。自分が描きたいものは実はこういうものだったんだ、と。
受験期の苦痛もあったから、次の日もまた次の日も3日間通ったんです。僕、同じ映画に通ったのは生涯でそのときだけですから。でも、大学が決まって、もう一度見にいったら弱点ばかり目についてね。ただ、最初に受けた印象だけははっきり残っているから、その方向で、ちゃんとしたものを作らなきゃだめだとは思いました。
映画というものは、作品としての価値が真空の中に存在しているんじゃない。どういう人間とどういう状態のときに出合うかによって意味は変わるんです。それはその映画のもっている星であって、どういう瞬間に出合うかは受け手の人間の運なんです。(当該記事より)記事提供:JUN氏
1998年4月5日 しんぶん赤旗 日曜版
宮崎駿さんの青春語ろ〜ぐ 1
「生きることを始められない子たちへ」
僕には小さい時から、生まれてきたのは間違いだったんじゃないかという疑念がありました。病気で死にかけたりして、親が「ずいぶん大変だった」などと話すのを聞くと、「とりかえしのつかない迷惑をかけてしまった」と不安でいたたまれなくなるような子どもでした。ですから、懐かしい子ども時代というものがないんです。
子ども時代、僕は兄弟の中で一番ききわけのいい優しい子で「いい子」で通したんです。おとなや両親に自分を合わせていただけだと、ある時気がついて、屈辱感で叫び出したいほどつらかった。それで、初めて見たセミの単眼がきれいだったとか、ザリガニの足の先がハサミになっているのに感動したりしたとかは覚えているけど、人とのかかわりでの自分の姿は、記憶から消してしまったんです。
友だちの中では、けっこう陽気にふるまっていたはずなんです。その内側に、ひどくおどおどした不安と恐怖に満ちている自分がいました。その自意識のひ弱な部分を支えてくれるものとして手塚治虫さんの漫画が現れました。この人は世界の秘密みたいなものをものすごくよく知っているんじゃないかと思えた。
手塚さんの「新宝島」という漫画にリアルタイムで出合ってもっとも衝撃を受けた世代が、当時6才か7才だった自分たちだろうと思います。そうじゃないと、アニメーションの演出やってる人間に昭和16年、17年生まれがやたらに多いことの説明がつかない。(笑い)
昔は、子どもたちにとって、どうやってメンコをだましとるかと言うことが一番大事だった。(笑い)これは懐かしさでいってるんじゃない。オニヤンマをとるのが上手な子は、学校で5なんかをとるよりはるかに子どもたちから尊敬されていたんです。そのすき間に、自意識過剰でおどおどした僕みたいな漫画をかくしか能がないやつにも、それなりの場所があったんです。
子どもたちはエネルギーの塊で、放っておくと悪さもずいぶんした。大人の社会の中に組み込まれながらも独立した「ガキ」の世界があったんです。それを全部壊しちゃったんですよね。現実よりもテレビの中の世界の方が圧倒的に魅力があると子どもが思った瞬間がウルトラマンです。ウルトラマン世代にとってはウルトラマンが世界最高なんです。(笑い) それが、今日の子どもにまでつながっている。
その一方、子どもたちをとり囲む価値観はどんどん数を減らしたでしょ。文部省だけじゃなく社会全体が「損得で計算しろ」という一つの価値観にしぼり込んだからです。別に悪いことをしたわけでもないのに、いまの子どもたちはなんでこんなつまんない世の中を渡されたんでしょう。いま僕の頭の中をしめているのは、おとなとしてはどうすればいいんだろうというこ
とばかりです。
なぜ子どもがナイフで人を刺すようになったかといったら、子どもが生きることを始められないからです。始めねばならない時期がきているのに、現実に手がかりがない。自分を自分にしていく方法がないから、自分を破壊したり他人を攻撃するんです。病理現象は、本当に深刻なところまできている。 だから、善悪の以前に、生き物として生きいき生きる能力を身につけてあげなきゃいけないんです。
妄想するのですが、小学校3つぐらいの範囲の地域を実験場にさせてもらいたい。そこの幼稚園では字なんか教えない。おとながありったけの知恵をあつめて、みんなそこが大好きで家に帰りたくないっていう場所をつくる。ビデオの「となりのトトロ」なんか見せない。(笑い)
小学校も、おもしろくてしょうがないという学校をつくる。九九を2年生で教えるなんてもってのほか。小学校時代何も勉強しなくたって、中学生の年齢になってほんとに勉強する気になったら、たちまち取り返せます。
子どもたちの闇(やみ)の部分もちゃんと判(わか)らせる。ケンカもさせなきゃだめ。屈辱感も味わわなきゃいけない。 10年間そういう実験をやらせて下さい。それがうまくいったら、日本中に広げればいい。
とにかく発想を抜本的に変えるべきときです。その中で、僕が何かの役割を果たせるなら、難しいんですけれども、出発できない、始められない子の物語をつくってみようという気でいます。始められない子が始めなきゃいけなくなって、艱難(かんなん)辛苦する話。始め方がわからない子どもたちが、自分たちの話だと思えるようなエンターテインメントをつくれたらと考えているんです。
<プロフィル>
みやざき・はやお 1941年東京生まれ。学習院大卒後、東映動画に入社。その後Aプロなどを経て、85年スタジオジブリの設立に参加。その間「未来少年コナン」「ルパン三世・カリオストロの城」「風の谷のナウシカ」の監督。ジブリでは「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「もののけ姫」などを発表。
<記者の独り言>
監督の口をついて出てきたのは、現在の子どもたちをとりまく問題だった。これからの教育はどうあるべきかというお話の後、ポツリ「でも・・・学校、変えたいねえ・・・」としみじみ。その瞬間、「この人の頭の中は子どもたちのことでいっぱいなんだ。だから、すばらしいアニメーションをつくることができるんだ」と実感した。(当該記事より) 記事提供:JUN氏