●物語の世界観を読む
investigate of outlook on the story

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このコーナーでは

「もののけ姫」は難解な映画であると言われる。その世界観を様々な角度から検証する試みが数多くの評論家やライター、学者らの手によって行われつつある。
このコーナーでは、「もののけ姫」の世界観を「権力」という概念をキーワードにして読むことを試みた。

項目ごとに順次追加の予定。


項目例


▼「権力」と「もののけ姫」

*エボシ御前と権力
 エボシ御前が率いる「タタラ場」は、言うまでもなくタタラ製鉄を行う一大工場として描かれていた。そこには、直接製鉄に携わるタタラ者だけにとどまらず、砂鉄を採取する人々、鉄や食料を運搬する牛飼い、傭兵部隊ともいえる石火矢衆、あるいは「タタラ場」を守るための武器を開発する人々までが一緒に暮らしていた。「タタラ場」の中には、製鉄に関連する設備だけではなく、家畜の世話をしたり食料を煮炊きしたりする生活臭の漂う「街」と呼べる区画があり、周囲には堅固な城壁が張り巡らされ、さしずめ要塞都市としての様相さえ漂わせていた。

 「もののけ姫」では、「タタラ場」どのようにして成立したのかについて詳しくは語られない。エボシ以前も、もともと小規模なタタラ集団が神々の山の近くで操業していたようである。しかし、そのタタラ集団は常々山の神(ナゴ)に苦しめられており、ある日石火矢衆を従えて現れたエボシがナゴを退治するとともに実権を握り、「タタラ場」として要塞化していったものと思われる。

 エボシ御前は、直接製鉄を指揮していたわけではなかった。製鉄の実務は従来からのタタラ者(村下)に任せていた。石火矢衆も、もともとの所属は師匠連という謎の組織であり、シシ神退治を条件に貸し与えられた傭兵であった。それでも、エボシ御前が「タタラ場」のリーダーとして君臨できたのは、エボシ御前の持つ「権力」によるものに他ならない。病者を引き取り、売られた女を集めてきて働かせることが出来る者、まさに「権力」の裏付けがあるからこそである。では、そのエボシ御前の持つ「権力」とは何だったのだろうか。

 一般に「権力」というと、「支配」の側面だけが想起されがちである。しかし、何故権力が「支配」を行いうるかというと、それは権力のもつ「保障」の側面があるからである。「権力」は、人々の生活を何らかの形で保障することを理由として形成される。

 エボシ御前は、社会では差別されたり排斥される存在であった病者や売られた女を「タタラ場」に引き取り、その生活を保障した。エボシ御前は石火矢衆を使って「タタラ場」からナゴの神の脅威を取り除き、襲撃から米や鉄を運搬する牛飼い衆を護衛することでその安全を保障した。製鉄の安定した操業は、「タタラ場」に充分な食料をもたらし、それは石火矢衆の生活をも保障することにもなった。エボシ御前は、人々の要に位置し、人々の生活と安全を「保障」し得たからこそ、「保障」と「支配」=「権力」を持ち得たのである。

 支配者は、往々にして「支配」のみに目を奪われ、「支配」=「権力」という考えに陥りがちである。しかし、エボシ御前は謙虚であった。常に冷静沈着に振る舞い、決して偉ぶることはなかった。そして、最小の「支配」で最大の「保障」を「タタラ場」にもたらす術を心得ていたものと思われる。だからこそ、出自も立場も雑多な「タタラ場」の人々をうまくまとめあげることに成功していたのであろう。




*市場を支配する「権力」
 エボシ御前の「権力」は、「タタラ場」の外にも及んだ。エボシ御前の鉄は、市場で売りさばかれ、主に米と交換された。大規模なタタラ操業は、少ないコストで良質の鉄を生産することが出来る。鉄製品の数々は人々の生活に欠くことが出来ないから、安価で高品質なエボシの鉄は、市場で強力な主導権を持っていたものと思われる。

 市場を支配する力は、すなわち「権力」である。エボシ御前の「権力」は、鉄を扱う商人を潤し、人々に鉄製品のある豊かな生活を保障したのである。

 当地の武将であるアサノ公方も、何とかエボシ御前を支配下において、製鉄の利益を吸い上げようと目論んでいた。それが実現できなかったのは、まさにエボシ御前が市場において強力な「権力」を有していたからに他ならない。もし、力関係の上で「タタラ場」の方が市場より弱ければ、相当足下を見られたであろう。あるいは、女たちが作った=穢れた鉄ということで、二束三文の値段で買いたたかれたかもしれない。エボシ御前が率いる「タタラ場」の鉄は、そのような偏見の入り込む余地のないほどの価値をもって君臨したのである。

 アサノ公方が「タタラ場」を屈服させるには、防御堅固は「タタラ場」を攻めるよりも、単に「タタラ場」への食料供給をストップさせたした方が余程簡単であった。何故なら、「タタラ場」自身は食料を生産しないから、食料の供給を絶たれたら、たちまち飢餓に見舞われるからである。

 しかし、アサノ公方が持っていた「権力」では、「タタラ場」への食料の流れを阻止することは出来なかった。アサノ公方が「タタラ場」に食料を売ることを禁じれば、当然市場への鉄製品の供給も止まる。そうすれば、鉄の取引で生活する商人や鉄製品を消費する人々に深刻な影響をもたらす。力関係でいえば、「タタラ場」が飢えるより先に、これらの人々の方が立ち行かなくなるであろう。アサノ公方はそれらの人々の生活まで保障することは出来なかった。つまり、アサノ公方は市場を支配する「権力」を持ち得なかったからこそ、最後には軍事力に頼って直接「タタラ場」を攻めにかかったのである。

鉄製品を背景とした市場の支配は、経済的な「権力」そのものであった。その本質は「市場の所有」である。エボシ御前は、「タタラ場」で生産した鉄を売りさばく市場を所有していたのである。これは、アサノ公方が所有していたと「領地+農民」の概念とは異なり、いわゆるシマ、なわばりとも言うべき法的土地所有とは異なる次元に成立していた「所有」なのであるから、しかるべき税さえ払えば「タタラ場」はアサノ公方と共存できたはずである。しかし、「タタラ場」のもつ「権力」は、アサノ公方に税を払う必要もないほど強大なものであったから、「権力」の確立を目指すアサノ公方の焦りも理解できようものである。







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