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このコーナーでは
「もののけ姫」には、「タタラ場」の病者に代表される、史実に即した様々なテーマが様々な形で織り込まれています。中には、「業病」のように現代にまで通じるテーマも取りあげられています。また、「もののけ現象」とまで形容された「もののけ姫」公開が社会に及ぼした影響も決して小さくありません。
このコーナーでは、「もののけ姫」の作品世界に登場した個々のテーマをピックアップし、日本の昔と今について考察します。
このコーナーは、テーマごとに順次追加していく予定です。
▼「業病」ことハンセン病について
*「もののけ姫」とハンセン病
「もののけ姫」には包帯で全身を覆った病者が登場します。映画の中で、エボシ御前は彼らの病気は「業病」である、と言いました。「業病」には難病、直りにくい病気という意味もありますが、ハンセン病=いわゆる癩(らい)病のことを指しました。癩(らい)病の患者は、差別の対象であり、社会から排斥される存在であり、特に近代以降にその傾向が顕著となりました。明治時代、ハンセン病患者を隔離する法律が作られ、患者は強制的に隔離施設へ収容されました。それは公権力による合法的な差別であり、ハンセン病患者に対するいわれなき偏見が増幅される素地にもなりました。ハンセン病=伝染病ではなく治る病気ことが分かって後も、その偏見は長い間色濃く社会に残っています。
さて、東京都の東村山市には、「全生園」というハンセン病患者を隔離・収容した施設があります。宮崎駿氏の語録に「『全生園』に行ってごらん。それまでの人生観が変わるから」いいうのがあります。人に「全生園」訪問を勧めるくらいですから、宮崎駿氏がハンセン病をよく理解しようとしていたことがうかがわれます。
ここでは、ハンセン病と社会との関わりについて考えてみます。
*ハンセン病とは、どのような病気か
ハンセン病は、細菌による感染症の一種で、らい菌(Mycobacterium)という細菌が体内に入り込み増殖することで引き起こされます。主に体内の末梢神経が侵されることによる知覚まひ、運動まひなどが生じ、手足や顔に皮疹、結節(こぶ)が出来たり、眉毛が脱落したり脱毛したりする、いわゆるハンセン病特有とされる症状が引き起こされたりします。
らい菌は人間の神経と親和性が高いため、簡単に神経の中に入り込みます。また、らい菌は比較的温度の低いところを好むため、人体の中でも手足の先や鼻、目、耳などの部位の末梢神経で増殖します。そのため、外見からみて分かりやすいところに変化が生じるため、「癩にかかると指が腐っておちる」「鼻が溶けてなくなる」などと呼ばれ、差別の原因になってきました。(ただし、これらは神経障害が引き起こす二次的な症状であって、いわば後遺症に過ぎません。)
ハンセン病は、極めて進行の遅い病気の一つとされています。ひとつのらい菌が分裂するには数週間かかります。他の病原菌、例えば赤痢菌やコレラ菌は約1時間に1回分裂し、1つの細菌がたちまち数百万個にも増えて病気を引き起こすことを考えると、らい菌による病気は極めてゆっくり進行します。感染しても、体内で菌が増えて実際に症状として現れるまでに平均数年、ときには数十年に及ぶ長い期間がかかります。そして、発病に時間がかかる分、治療にも長い時間がかかり、数年から10年以上にわたる治療・服薬が必要とされます。
ハンセン病は、かつて癩(らい)病と呼ばれていました。癩(らい)病は、昔より毛穴から侵入する伝染病であるとする説や、仏罰による報いであるとする説などがありました。江戸時代以降は家筋説=遺伝説が広く信じられていましたが、1873年(明治6年)にノルウェーのアルマウエル・ハンセン氏によってらい菌が発見されると、これは伝染病ということになりました。ここで、病気に対する理解の不足や差別・偏見が重なって、患者は社会から隔離される方向へ進んでいくことになりました。
*ハンセン病とは、どのような病気か
・発病すると手足に神経障害を引き起こす。昔は癩(らい)病と呼ばれていた。
・感染症の一種で伝染病ではないが、昔は伝染病と考えられていた。
・今では完全に直る病気であるが、昔は不治の病と考えられていた。
*ハンセン病患者は、何故差別されてきたのか
ハンセン病を引き起こすらい菌は、結核菌と近縁関係にあります。しかし、結核が主に肺の中や骨、腸など体内で病気が進行するのに対して、手足や目・鼻・耳・頭髪など外見の目立つ部分に障害が現れるため、それだけ忌み嫌われ、偏見を生むことになりました。
ハンセン病は慢性の病気で症状の進行は極めてゆっくりした病気で、必ずしも命を落とす病気ではありませんでした。治療薬のなかった昔でさえも、免疫力低下などによる他の病気を併発しない限り、つまりハンセン病だけが原因で死ぬことはあまりなかったといわれています。ただし、それがかえって長期間にわたって外見上の障害が人々の目に触れることになり、一層の偏見と差別を助長することになってしまいました。
また、長い間その病気の原因が分からなかったことも、差別を生み出す要因になりました。その昔、癩(らい)病と呼ばれたハンセン病は、「業病」や「天刑病」と呼ばれ、「過去に悪いことをした報い」とか「天が罰している刑」などとされ、差別されてきました。
そして、差別においては社会的な要因が強く働いています。もともとらい菌の感染力は、未だ培養が成功していないことから見ても極めて弱いものであり、仮に感染しても実際に発病する発症力は更に弱いとされています。その割合は他の感染症に比べて非常に低く、1000の感染につき発病に至るのは1例以下といわれるほどです。しかし、このような感染力が弱い菌であっても、体内の免疫系が弱っている状態、すなわち衛生状態や栄養状態が悪い状態にあれば、感染・発症する危険性は高くなります。結局、もともと社会的に差別され、慢性的に飢餓や貧困に直面している人達がより高い確率で感染・発症することになり、差別は決定的なものになりました。すなわち、ハンセン病に対する差別には、単に医学的な要因だけではなく社会的な要因も深く関わっていることを見逃すことが出来ません。
*ハンセン病患者は、何故差別されてきたのか
・手足や目鼻の崩れなど、外見の障害で病気がはっきり分る病気であったから。
・慢性的な病気であったため、障害が長期間人の目に触れたから。
・発病の医学的な原因が分からず、宗教的な排斥にも利用されたから。
・社会的な因子(社会的弱者が感染しやすい)により差別が助長されてきたから。
*ハンセン病=癩(らい)病の歴史はどのようなものだったか
癩(らい)病は、奈良時代には既に文献の中に登場していました。8世紀に完成した「日本書紀」によれば、「朝鮮の百済から『白癩』の者が渡来した」とあります。けれどの、ここでいう「白癩」には、いわゆる癩(らい)病=ハンセン病だけではなく、その他皮膚病一般の病気も含まれていたとされています。
12世紀の「今昔物語集」には、「比叡山の僧侶が法会(ほうえ)を妨げ、尊い僧にたいして嫉妬した報いとして『白癩』となり、周囲から穢れた者として排斥され、京都の清水坂の庵に入って間もなく死んだ」という話が記載されています。このことから、癩(らい)病を患う者は差別の対象とされて忌み嫌われていたことが伺われます。
癩(らい)病に感染したことが分かると故郷を追われ、放浪の民となることが少なくありませんでした。「癩者」は非人として扱われました。彼らは物乞いで生計を立てるほかありませんでした。ある者は寺院で施しを受けました。鎌倉時代には、律宗の僧叡(えいそん)・忍性(にんしょう)が奈良に集まる「癩者」を救済したとされています。薬師寺の近くには西山光明院が設けられ、薬師寺の保護のもと「癩者」がそこに収容されていました。また、忍性は鎌倉の極楽寺でも「癩者」の救済を行っています。
時宗の開祖一遍の布教を描いた「一遍聖絵」には多くの「癩者」が描かれていることはよく知られています。一遍のもとに集まった時衆のなかには、多くの「癩者」が含まれていました。ただし、「一遍聖絵」を見る限り、「癩者」は他の「乞食」の集団と明らかに区別されているので、やはり差別の対象となり虐げられていたことがわかります。
室町時代以降は「癩者」に関する事実を示す史料が少なく、「癩者」の実態はよく分かりませんが、16世紀以降に来日したカトリック宣教師たちは、積極的に「癩者」救済に関わりました。特にフランシスコ会は熱心で、フランシスコ会宣教師たちが設けた修道院にはたいてい「癩病院」が付属で設けられていました。その場所は、大坂・肥前・有馬・長崎・京都・伏見・江戸・広島・和歌山などにまたがり、1607年の大阪では4か所に約400人の癩(らい)病患者が収容されていました。宣教師による「癩者」救済は、江戸幕府によるキリスト教弾圧によって消滅を余儀なくされましたが、その時多くの「癩者」も殉教したといわれます。
江戸時代に入っても、「癩者」の生活は寺社の門前や、町家を回っての物乞いによって生計を立てていました。京都では、五条橋を過ぎて清水坂に向かうあたりに「癩者」の集落が形成され、市中や清水寺への参詣者に物乞いをしていました。
さて、「癩者」、すなわちハンセン病患者は、ざっと人口1000人あたり1人くらいの割合でいたと推定されています。原因が分からず治療法もない当時は大変恐れられていましたが、社会から隔離されることはありませんでした。差別され、忌み嫌われていても、ある意味で社会と共存していたということも出来ます。癩(らい)病によって死体の山が築かれることはなかったし、癩(らい)病患者の交際範囲に感染者が続出したわけでもなかったからです。
しかし、明治時代になると、癩(らい)病患者をとりまく環境は一変します。遺伝病と信じられてきた癩(らい)病が感染する病気であると分かって、8種伝染病に追加されると、あたかも伝染病の王であるかのように宣伝され、ひどいものになるとコレラやペストよりも恐ろしいと見なされるほどでした。実際の感染力は非常に弱かったのですが、国家の強力な宣伝によって癩(らい)病=恐ろしい病気という考えが国民全体に行き渡っていきます。近代化を急ぐ明治政府にとって、諸外国では既に過去のものになりつつある癩(らい)病が、未だ日本では蔓延しており、放浪したり神社・仏閣の前で物乞いしたりしている癩(らい)病患者を放置しておくことは国家の体面にも関わることでした。そこで、癩(らい)病患者の隔離が進められることになりました。
当時の隔離所設立を訴える文書には、次のような記載がなされています。
「流浪せる癩患者が社会に病毒を蔓延せしむること多大なるは論を侯たざるも、なお恐るべきは彼らにして乞食をなすを肯せず、職人となり舟子となり飲食物製造者となり、甚しきはその両親癩にして、その子をして理髪人たらしめ、あるいはその夫癩にしてその妻に飲食物をひさがしむるの類に至りては実に危険極まれりと謂わざるべからず。」悪しき病毒が個人から家族を経て、やがては親族の全般へと高波のように広がってゆくイメージは、劣悪な素質が世代を貫いて拡散してゆく悪夢めいた光景を連想させるのに充分なものでした。そして「浮浪者の記念なるは四股に生じたる潰瘍を治療する由なく、この傷より周囲に放散する無数の病毒乾燥して結核菌のごとく周囲に飛散す、独り潰瘍のみならず、不潔なる衣服に付着する病毒患者の動作によりまた周囲に飛散し、喀痰鼻汁の乾燥したるものまた結核患者の喀痰と同一の危険物にして、この病毒の様々の機会を持ち、癩病に侵され易き体質に寄生発育して数年の潜伏期間をもってこの人を癩病たらしむ。この恐るべき病毒の散布者たる浮浪癩病者は諸国の至る処に徘徊し、ことに神社仏閣名所 旧跡の地にして人の集合するところは彼らの生活に尤も便宜なる所として群衆するを見る。」「このごときは一国の体面ないし一家の恥辱のごとき無形的損害のみにとどまらず、実に公衆衛生上の有害物にして、隔離所を起こし、これらの患者を強制的に収容するにあらずんば、国家は罪悪を行いつつあるものと云うべし」(養老院月報)とまで表現され、病気の治療を目指すのではなく、国家の体面を保つために癩(らい)病患者の隔離が進められていきました。そして、1909年に「癩予防ニ関スル件」という法律が制定され、数度の改正を経て1931年に「癩予防法」となって、全ての患者の隔離が法律によって規定されるに至りました。
ところで、鎌倉時代に書かれた『元享釈書』(げんこうしゃくしょ)には、奈良時代、光明皇后が「癩者」に接したという故事が記載されています。光明皇后は藤原不比等の娘で聖武天皇の皇后となった人物です。皇后自ら「癩者」の崩れた肉体を舐め回し、体中の膿を吸い尽くすと、その患者は如来になったというものです。この、高貴な皇后が癩(らい)病患者をいたわるという構図は、近代以降、皇室の「仁慈」の象徴とされました。もっとも、これは「癩者」を救済するというよりは皇室の力を誇示するためといった要素の方が強く、そのために「癩者」の魂はかえって貶められたという側面をも併せ持っていました。誰にも真似することの出来ない皇后の善行は、同時に「癩者」の救いがたいおぞましさを一層想起させるものだったからだからです。
かくして、「癩者」は一層激しく差別され、隔離されて社会から完全に切り離された存在になっていきました。特に「癩予防法」の制定は、アジア地域へ侵略を進める当時の国策の中での民族浄化思想やファシズム思想とも影響しながら、国民の間に癩(らい)病は隔離しなければならないような恐ろしい伝染病であるという恐怖心を植え付けることとなり、それは戦後数十年を経ても容易には消えない根深い偏見を残すことになりました。
*ハンセン病=癩(らい)病の歴史はどのようなものだったか
・歴史は古く、奈良時代(8世紀)の記録までさかのぼる。
・昔から約1000人に一人の割合で発生し、その割合は一定していた。
・「非人」として扱われ、物乞いなどで生計を立てていた。放浪する者もいた。
・差別される存在であったが、寺院・僧侶などによる救済も行われ、一応社会の中で共存していた。隔離・収容され、不当に迫害されるようになったのは、明治以降の国策によるものが大きい。
*ハンセン病患者の人権はどのように侵されてきたか
根拠のない偏見により、社会から不当に排斥され差別されてきたこと自体が、ハンセン病患者の受けた大きな差別の歴史を表すものですが、特に明治以降、国家権力によって進められた隔離政策により、患者の基本的人権が「合法的に」侵されたことが最大の問題であったと言わねばなりません。
戦後になって改正された「らい予防法」も、国家が患者の基本的人権を抑圧する性質を持っていました。普通に暮らしていた患者をある日突然着の身着のまま療養所へ連れ去る強制隔離が平然と行われました。退所規定は定められていないため、一度療養所に入ると生涯そこで過ごすことを事実上強制させられました。現金は取り上げられ、療養所の中でしか通用しない「金券」と交換させられたりしました。しかし、この「金券」には法律的な根拠は何らないものでした。
また、ハンセン病は遺伝病でありませんが、患者は半ば強制的に断種手術を受けさせられました。戦前に制定された「国民優性法」には、遺伝性による断種の対象としてハンセン病は入っていませんでした。しかし、ハンセン病は遺伝性の見なされた疾病に準じるものと拡大解釈され、断種が公然と行われました。そして、驚くべきことに戦後に制定された「優性保護法」は、断種と人工妊娠中絶の対象としてハンセン病患者が明記され、この規定は1996年4月に「らい予防法」が廃止されるまで存続していました。
さて、1953年には「癩予防法」を改正した「らい予防法」案が国会に提出されました。しかし、これは患者とその家族に対する差別を禁止しつつも、患者の隔離を合法化し多くの人権を抑圧するもので、法案そのものが差別的である内容は何ら変わるものではありませんでした。この法案には1951年に結成された「全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)」などハンセン病患者の人権回復を目指す人達から激しい反対運動が起こりましたが、癩(らい)病=ハンセン病が恐ろしい病気であるという偏見が社会全体になお強く残っている背景もあって、付帯決議がついたものの結局法案は成立してしまいました。その後も法律の廃止を求める地道な運動が続けられましたが、結局この法律は40年近くも放置され続け、1996年4月に至ってようやく「らい予防法」は廃止されることとなりました。しかし、まだ多くの課題が残されたままになっています。
国家権力による差別は、ハンセン病=恐ろしい病気という恐怖心を国民に植え付け、民族浄化とファシズム思想と連関して大きな差別の嵐を作り出してしまいました。その偏見は戦後数十年経っても根強く残り、差別の対象は患者本人のみならず家族にまで及び、家族・親族への婚姻忌避、入店拒否、子どもの修学拒否、転居を迫る嫌がらせなど、様々な形で迫害を受けました。それらの偏見は、現在をもってなお解消されたとは言えません。
*ハンセン病への偏見はどのようになくしていくべきか
「らい予防法」の廃止により、ハンセン病はようやく一般の感染症としての地位を得ることとなりました。これまでのような隔離ではなく、一般の外来と同様、普通の病気として扱われます。もちろん、感染症ですから不用意な感染予防を講じなければならないことは言うまでもありませんが、かつてのように医者や看護婦が診療を拒否したような、無理解と誤解に基づく誤った対応が繰り返されてはなりません。そのために、いまなお社会に残るハンセン病に対する偏見をねばり強く取り除いて行かねばなりません。
次に、療養所を出て社会復帰していく人への支援を強力に進めて行かねばなりません。新しい法律は、現在ハンセン病療養所に入所している人にも、在宅患者にも、国の費用による援護がなされることを規定しています。しかし、これは最低限の保障であって、患者のそれぞれが望む生活をバックアップするものとはいえません。例えば、医療保険の問題は未解決のままです。また、法律の中にも元患者の社会復帰を支援すると規定されていますが、それ以上のものではなく、予防法の廃止を受けて療養所を去った人もほとんどいないのが実状とされています。実際問題として、どのような施策を提示・運用していくかが強く問われています。
さらに、ハンセン病の患者だけではなく、その家族の問題についても見落とすことが出来ません。「らい予防法」による強制隔離では、患者本人だけではなく、その家族もまた犠牲になったといえます。家族の中から患者を出したために故郷を捨てざるを得なかった家族、離散してしまった家族は少なくありません。しかし、これらの人々に対する保障や支援は全く考慮されていません。少なくとも、社会全体の偏見をなくしていかなければ、解体してしまった家族の将来は浮かばれません。そのためには、強制隔離を法律で規定したハンセン病政策と国家による患者への人権侵害の歴史を正しく認識し、これを風化させない教育・啓蒙活動も重要になります。
私たちは、ハンセン病に対する知識を正しく理解し、何故ハンセン病患者が差別されなければならなかったのかを認識し、意識的、無意識的に関わらず差別的な視点をもってハンセン病およびハンセン病患者を見ないようにつとめなければならないでしょう。
参考文献
「癩者の生」澤野雅樹 青由弓社
「知っていますか?ハンセン病と人権」ハンセン病と人権を考える会 編 解放出版社
「隔離」徳永進 岩波書店
「片居からの解放」大谷藤郎 など